2013年2月26日火曜日

陽はまた昇る。


受験の山場を迎えているからでしょうか、ここ最近、当ブログの閲覧者数が急に増えました。もちろん、せっかく書いている以上はたくさんの方に読んでいただきたいと思っておりますので、たいへんうれしい気持ちです。



さて、千葉県の公立高校は前期入試がすべて終わり、あとは後期入試を残すのみとなりました。前期・後期に分けるこの入試制度は、2年前から始まり今回が三度目ですが、今のところは成功しているとは言い難く、いろいろな意味でたくさんの中学生たちを傷つけ、悩ませております。はっきり言いまして、これは今すぐにでも改変するべきです(変えるという噂はありますが)。


さらに言いますが、内申書の評定合計の調整、あれもたいへん問題のある制度です。評定合計の調整とは、評価の方法が絶対評価になって以降に採用されたシステムですが、要は

①その中学校には成績に4や5がついている子が多い
       ↓
②その学校の教師は甘い者が多いに違いない
       ↓
③それで有利になってはいけないので、その学校の生徒全員の内申点を下げます

というものでして、もちろんその逆のパターンの場合には内申点が上乗せされますので、実質この制度のせいで、一番極端なケースでは、スタートからおおよそ20点もの差がついてしまいます。


では一見、公平を目指したこの制度、何が問題なのかというと、それは良い成績が多い学校には、実際にレベルの高い生徒が多く、教師は決して甘い評価をつけているわけではない、ということです。もちろん中学校は山ほどありますので、中には甘い学校もあるのかもしれません。しかし “甘い評価は受験で損をする” というのはもちろん教師もわかっていますから、普通はわざわざ狙って甘くはしません。実際に優秀だから、成績に4や5をつけるのです。


要するに上記の②は、完全な誤解であり、さらに言えばこれは文科省や教育委員会の怠慢。実際に優秀な生徒の多い学校なのか、単に生徒に甘い学校なのか、それくらいはきちんと調べようと思えばできるはずです(学力テストの結果を調査する等)。その御上の怠慢の結果、成績優秀な学校ほど入試では完全に損をしており、その学校の生徒たちはなかなか受験がうまくいかず・・・。テストを受ける前から20点ものビハインドがあるなんて、実際にそんな不利な状況でテストを受ける生徒たちの気持ちを考えると、本当に腹の立つ最低・最悪の制度だと思います。



こんな怒りの文章を書くと、当スクールの生徒の多くがこの制度のせいで涙をのんだ、と思われるかもしれませんが、そのようなことは全くありません。単純に、現行の制度に不公平感と不条理を感じるため、私は非常に頭に来ているのです。中学校の教師の中にも、このおかしな制度に怒りを感じ、戦おうとしている方はいないのでしょうか? これでは不公平だからと、御上の方針に背き、内申点の計算方法を変えようという高校は、出てこないのでしょうか?



・・・と、怒り続けたところで後期入試は変わらないままやって来ますので、これくらいにします。




最後に、前回のブログで挙げた映画 “桐島、部活やめるってよ”、映画自体も最高に素晴らしかったのですが、エンディングに流れた曲にも私は同じくらいに感動しましたので、ここに歌詞を抜粋して記載します。よかったらyoutube↓で聴いてみてください。


高橋 優 「陽はまた昇る」

【自分だけが置いてけぼりを喰らっているような気がする
  誰かがこっちを指差して笑っているような気がする
  同じような孤独を君も感じてる?
  愛も平和も何もかも人事のように聞こえる淋しさを・・・

  後ろから「早く行け!」と急かされながら前に踏み出してる
  前の人が「押すな!」と言わんばかり振り向き様こっちを睨んでる
  同じような窮屈を君も感じてる?
  不幸せばっか拾い集めなきゃいけないような淋しさを・・・】



後期に臨む受験生!

孤独なのは、君だけじゃないぞ!!

陽学舎の講師陣も、友人たちも、みんな君を応援している!!


がんばれ!!!



2013年2月18日月曜日

青春って、いいなぁ。


千葉県公立高校の前期入試が、13日に終わりました。合格発表は、明日です。前期入試は募集定員が全体の60%で、平均倍率は1.85倍でしたが、千葉県では偏差値が高い学校ほど倍率も高い、という傾向がありますので、当スクールの生徒たちの受験校の平均倍率は、おおよそ2倍くらいでしょうか。


よって現実的には、明日に進路が決定する者は全体の半分ほどになると思われますが、もちろん私は陽学舎の生徒、全員の合格を、心より祈っています。そして後期入試に挑むことになる生徒たちには、残りの9日間、私は最後の追い上げのサポートを、全力でさせていただきます。




さてここからはカジュアルモードで、人称も “僕” といたしますが、僕はプライベートでは、相も変わらず映画を観まくっています。先日は 「桐島、部活やめるってよ」 という邦画を、DVDで観ました。こちらは僕と同じく映画好きの友人が、昨年大絶賛していた作品でして、僕もスクリーンで観たかったのですが、なかなか機会がなく。そして待ちに待ったDVDが先日ようやく発売されたため、やっと観ることができたのです。


















・・・この映画、友人の言う通り、本当に素晴らしい作品でした。僕がこれまでに観た邦画の中では、ナンバー1かもしれません。そもそも僕は、邦画はあまり観ていませんけどね。先日当ブログで発表した、2012年の私的映画ランキングでも、1位か2位に入れたいレベルです。



映画は、どこにでもありそうな高校の、どこにでもいそうな高校生たちによる、何てことのない日常を切り取っているだけです。ストーリーは無きに等しい。映画タイトルの通り、桐島という名のクラスの人気者が、部活を辞める。出来事はそれだけなんです。ちなみにその桐島くんは、映画には登場しませんので、観客にはどんな人間かはわかりません。


では何が素晴らしいって、映画に描かれる高校生たちの生活が、とことんリアルで心に突き刺さるのです! 物語に主人公らしい主人公はおらず、10名ほどの男女の学生を中心に描いているのですが、その10名の行動や感情が、まさにいわゆる青春の1ページなのです。


とにかく必死に部活に打ち込んでいる、“夢を追う” 生徒たち。

部活なんてバカバカしいと、遊びと恋愛にのめり込む、“自由人” の生徒たち。

人間関係が苦手で、自分の世界の限られた範囲内に居場所を探す “オタク” な生徒たち。


“自由人”グループの中にも、部活人間やオタクたちを本気でバカにしている者もいれば、心の中で 「俺、なにやってんだろ・・・」 と、自分自身に呆れている者もいます。その者は、夢を追うことの虚しさに気づき、恋や遊びの甘美さを覚え、そちらに溺れたわけですが、必死に夢を追う者たちの美しさというものを、忘れてはいないわけです。そして逆に、部活に励むだけの者たちは、自由や恋愛に憧れ、それを堪能する者たちを羨んでいる・・・。


リアルです! とことんリアルな青春時代が、ここにあります!! “夢” や “恋”、イケてる者が上でオタクは下~というような、学生特有のあの謎の “ヒエラルキー”、さらに “嫉妬” や “虚無感” 、“虚栄心”・・・そんな学生時代の青春の思い出が、すべて詰まっています!! ここまで共感のできる映画は、かつてなかった! 本当に素晴らしい!!


・・あの頃は、いい時代だったなぁ・・・と、しみじみと思いました。小・中学校の学生たちには、これからこの甘酸っぱい時代が、本格的に始まるわけです。 羨ましいぞ、君たち!!



夢を追いかけるのを諦め、頑張るのをやめて、違った形での人生の楽しみや喜びを見つけることは、決して悪いことではありません。何よりも一番よくないのは、頑張っている人間を笑うこと、です。この映画でも、頑張っている他者をバカにする者のみ、冷やかな視点で描かれています。君が頑張るのをやめるのであれば、頑張り続ける者たちを尊敬し、応援する心を持ちましょう。


必死に夢を追うも良し、イケてる人間?になって恋に邁進するも良し、自分の趣味の世界を突き進むも良し。とことん悩んで傷ついて、全力で戦って戦って、それでもうまくいかなくて虚しくなってやめて、でも後悔してまた戦って・・・陽学舎の生徒たちにも、学生のうちにそんな経験を、たくさん積んでほしい!!



君にも最高に素晴らしい高校時代が、きっと待っているぞ!!

最後まで必死に、がんばれ、受験生!!!



2013年2月11日月曜日

力を出し切る!


もう遅い時間になってしまいましたので、今夜中にこのブログを読む受験生はほとんどいないでしょうが(いたら早く寝ましょう)、明日からは千葉県公立高校の前期入試です。


中には自信のある者もいるでしょうが、陽学舎のほとんどの生徒は安全圏への受験ではなく、“ややチャレンジ” な受験ですので、どちらかというと不安な気持ちになっている者が多いと思われます。



私が担当した生徒には言っておりますが、受験というものはポジティブな考え方の者の方が有利です。たとえば数学のテストで 「解けた!」 という手応えが全くなく、「こりゃやっちまった!」 となったとしても、「失敗した・・・ヤバい!」 という気持ちを後々まで引きずってしまうと、他の科目までその悪い流れに巻き込まれます。それはもちろん、願わくば避けたい事態です。


テストで良い手応えがなかったとしたら、「自分の周りにいる他の生徒たちも、きっと似たようなもんだろう」 と考えるのです。休み時間に周りを見て、みんなに余裕があるように感じたら、「本当は余裕がないのに、みんな強がっているんだ」 と捉えるのです。


実際に高校入試では、同じ学校を受験する生徒たちの出来はみんな、似たようなものです。10点~20点の間で、大多数が勝負をしています。君がうまくいかなくてガッカリしたとしたら、そのテストはそれだけ難しかったということですから、まわりの受験生たちも同じくらいに、ガッカリしています。



今日まで精一杯がんばった、という者もいれば、気がつけばなんとなく受験当日を迎えてしまった、という者もいるでしょう。どちらにしても、明日の試験では今現在の君の実力を、出し切るだけです。大切なのは、この 「実力を出し切る!」 こと以外の気持ちをすべて封印し、とにかくそれに徹すること。君の実力ならば本来は解けるはずの問題を、心の乱れから落とすことだけは、絶対に避けましょう。




陽学舎の生徒たちが、みんな志望校に合格しますように!!


がんばれ、受験生!!!



2013年2月1日金曜日

信頼関係という名の幻想。


寒い日が続いています。巷ではインフルエンザやノロウィルスが猛威を奮っているようですが、今のところ陽学舎の生徒たちに大きな影響はなく、ほぼ全員、元気な顔で通ってきてくれております。特に中3生は皆、元気にしておりますので、このまま公立高校入試本番までは自身の体調の管理にも、しっかりと気を配りましょう。




さて今日は、最近ニュース等でよく耳にするキーワード、“体罰” についての話をします。



私は 「体罰などあってはならない」 という考えの持ち主ですし、子どもたちの教育に携わるようになって10年、当然これまで一度も生徒に手を上げたこともなければ、そんな気持ちになったことすらありません。体罰も時には有効だ・・・と主張する方もどうやら日本には多いようですが、それには共感も理解も全くできません。


私は高校時代、剣道部に所属しておりました。剣道はまぁ、言ってしまえば不人気なスポーツですから、部員は同学年で私ともう1人、たったの2人だけでした。1学年上下の先輩・後輩は、5人ずつ位はいましたが。そしてその剣道部の顧問が、おそらく学校で一番強面であり、実際に学校中の生徒・教師が総じてビビッているという、そんな最恐の体育教師でした。


サッカーなどの球技の部活の顧問が体罰をすれば、それは誰が見てもすぐに分かる明らかな体罰ですが、格闘技における体罰は、表面上はいちおう “稽古” という扱いになるので、最悪です。とにかくボッコボコにされますし、蹴りを入れられたり、わざと防具のない所を竹刀で叩かれたり、本当に酷かったです。

それもまだ、“試合に負けた” や “気合が入っていない” 等の、こちらに少しでも罰を受ける要素がある時はまだよいのですが、明らかにただ顧問の “機嫌が悪いだけ” という日もありまして。顧問が不機嫌な表情で防具を着け出した瞬間の、あの絶望感といったら・・・。ドラクエでセーブパスワードのミスに気付いた瞬間の、100倍くらいはあったかと思います(例えが古くてすみません)。


いまだに当時のあの顧問を思い浮かべると、恐怖で身が震えます(大げさですが)。私は運動神経に優れてはいませんし、剣道もはっきり言って弱かった部類に入りますので、その稽古によって自身が鍛えられた、という実感は全くありません。まぁ、精神力は多少は鍛えられたかもしれませんが、それは激しい稽古から来たものではなく、顧問の理不尽に耐えぬいた、という所から来ているのだと思います。



体罰を肯定する者には、過去に体罰を受け、それによって自身やチームが強くなった、という経験があるのでしょう。昔、自分は体罰に耐えられた→耐えられない者は弱者だ→よって自分は強い人間だ・・・という、一種の自己肯定であり、自己陶酔であると、私は考えます。そして、体罰肯定の者が受けてきた体罰は、教師と生徒、両者の間に信頼関係があった上でのものだったのでしょう。私は当時の顧問のことが大嫌いでしたから、当然信頼関係などあるはずがなく、感謝の気持ちも全くありません。


では信頼関係がある上での体罰が是か非かというと、これも完全に非であると、私は考えます。そもそも、信頼関係が本当に成立しているかどうかなど、教師にどうやってわかるのでしょう? 教師が体罰をして、それに対して生徒が “ありがたい” と思うか、“許せない” と思うか。超能力者でもなければ、そんなもの読めるはずがありません。「お前(生徒)と俺(教師)には信頼関係がある」や「愛するが故に手を出す」というのは、完全に教師の側からの押し付けであり、そうやって体罰にしか頼れない無能な自分を、肯定しているだけです。


桜宮高校バスケ部の顧問も、全日本女子柔道の監督も、そこに大きな勘違いがあったと考えます。“信頼関係” という幻想に頼りきり、驕ってしまったわけです。 “信頼” は、相手から自然に発生するもので、押し付けるものではありません。ただし、もちろんこの二方だけにたまたま問題があったわけではなく、まだまだ日本中に体罰をしている教師は、たくさんいるはずです。よってこの二方ばかりをバッシングする今の世間の風潮は、いかがなものかと思います。



あの剣道部の顧問も、私とは信頼関係が成立していると、思っていたのでしょうか? 思っていたのだとしたらそれは大きな勘違いですし、思っていなかったとしたら、あれはただの暴力だったわけです。今は私は一教育者として、顧問のことは “あんな人間にだけは絶対にならない” という、いい反面教師にさせていただいております。