2013年2月1日金曜日

信頼関係という名の幻想。


寒い日が続いています。巷ではインフルエンザやノロウィルスが猛威を奮っているようですが、今のところ陽学舎の生徒たちに大きな影響はなく、ほぼ全員、元気な顔で通ってきてくれております。特に中3生は皆、元気にしておりますので、このまま公立高校入試本番までは自身の体調の管理にも、しっかりと気を配りましょう。




さて今日は、最近ニュース等でよく耳にするキーワード、“体罰” についての話をします。



私は 「体罰などあってはならない」 という考えの持ち主ですし、子どもたちの教育に携わるようになって10年、当然これまで一度も生徒に手を上げたこともなければ、そんな気持ちになったことすらありません。体罰も時には有効だ・・・と主張する方もどうやら日本には多いようですが、それには共感も理解も全くできません。


私は高校時代、剣道部に所属しておりました。剣道はまぁ、言ってしまえば不人気なスポーツですから、部員は同学年で私ともう1人、たったの2人だけでした。1学年上下の先輩・後輩は、5人ずつ位はいましたが。そしてその剣道部の顧問が、おそらく学校で一番強面であり、実際に学校中の生徒・教師が総じてビビッているという、そんな最恐の体育教師でした。


サッカーなどの球技の部活の顧問が体罰をすれば、それは誰が見てもすぐに分かる明らかな体罰ですが、格闘技における体罰は、表面上はいちおう “稽古” という扱いになるので、最悪です。とにかくボッコボコにされますし、蹴りを入れられたり、わざと防具のない所を竹刀で叩かれたり、本当に酷かったです。

それもまだ、“試合に負けた” や “気合が入っていない” 等の、こちらに少しでも罰を受ける要素がある時はまだよいのですが、明らかにただ顧問の “機嫌が悪いだけ” という日もありまして。顧問が不機嫌な表情で防具を着け出した瞬間の、あの絶望感といったら・・・。ドラクエでセーブパスワードのミスに気付いた瞬間の、100倍くらいはあったかと思います(例えが古くてすみません)。


いまだに当時のあの顧問を思い浮かべると、恐怖で身が震えます(大げさですが)。私は運動神経に優れてはいませんし、剣道もはっきり言って弱かった部類に入りますので、その稽古によって自身が鍛えられた、という実感は全くありません。まぁ、精神力は多少は鍛えられたかもしれませんが、それは激しい稽古から来たものではなく、顧問の理不尽に耐えぬいた、という所から来ているのだと思います。



体罰を肯定する者には、過去に体罰を受け、それによって自身やチームが強くなった、という経験があるのでしょう。昔、自分は体罰に耐えられた→耐えられない者は弱者だ→よって自分は強い人間だ・・・という、一種の自己肯定であり、自己陶酔であると、私は考えます。そして、体罰肯定の者が受けてきた体罰は、教師と生徒、両者の間に信頼関係があった上でのものだったのでしょう。私は当時の顧問のことが大嫌いでしたから、当然信頼関係などあるはずがなく、感謝の気持ちも全くありません。


では信頼関係がある上での体罰が是か非かというと、これも完全に非であると、私は考えます。そもそも、信頼関係が本当に成立しているかどうかなど、教師にどうやってわかるのでしょう? 教師が体罰をして、それに対して生徒が “ありがたい” と思うか、“許せない” と思うか。超能力者でもなければ、そんなもの読めるはずがありません。「お前(生徒)と俺(教師)には信頼関係がある」や「愛するが故に手を出す」というのは、完全に教師の側からの押し付けであり、そうやって体罰にしか頼れない無能な自分を、肯定しているだけです。


桜宮高校バスケ部の顧問も、全日本女子柔道の監督も、そこに大きな勘違いがあったと考えます。“信頼関係” という幻想に頼りきり、驕ってしまったわけです。 “信頼” は、相手から自然に発生するもので、押し付けるものではありません。ただし、もちろんこの二方だけにたまたま問題があったわけではなく、まだまだ日本中に体罰をしている教師は、たくさんいるはずです。よってこの二方ばかりをバッシングする今の世間の風潮は、いかがなものかと思います。



あの剣道部の顧問も、私とは信頼関係が成立していると、思っていたのでしょうか? 思っていたのだとしたらそれは大きな勘違いですし、思っていなかったとしたら、あれはただの暴力だったわけです。今は私は一教育者として、顧問のことは “あんな人間にだけは絶対にならない” という、いい反面教師にさせていただいております。



0 件のコメント:

コメントを投稿